プロフィール

はじめまして

心理カウンセラー 
高橋 成大

(たかはし せいだい) です。        1963年、埼玉県出身。

 私は、小2で転校後、学校に馴染めず、体に不調が現れました。
先生や友達の言動を気にしすぎ、人前では極度に緊張。
自信が持てず、何をするにも怖い、内気な子供でした。

 小6では「特別支援学級」を勧められるほど学力が低下し、「何もできない子」と見られていました。

 その後、中学で出会った楽器に夢中になり、独自の工夫で少しずつ成長。
勉強にも応用し、音楽の教員になる夢を叶えました。

 けれど、教員になっても自信のなさは消えず、失敗の連続。
ついには学校全体に迷惑をかける大失敗をし、離婚も経験、心もどん底に落ちました。

 それでも、自ら学び続けたある方法を実践し、カウンセリングも受けながら、少しずつ自信を回復。

 教員として歩み続け、最後は校長としてコロナ禍を乗り越えることができました。

 私がどうやってこの負のループを断ち切ったのか――
詳しくはプロフィールでご紹介しています。

 現在は、自らの経験や35年間の教職経験を活かし、私のようなHSPで悩まれる方や、人間関係・不登校の子をもつ親御さん、夫婦関係で悩まれる方をサポートしています。

プロフィール《目次》

いつも人の目を気にしていた小学校時代

私の人生を変えたトランペットとの出会い(中学校時代)

失敗から始まった、私の小さな変化

クラスに自分の居場所を作った合唱コンクール

不安から始まった商業科目への挑戦(高校時代)

「このままずっと経理部? 本当にやりたいことは?」(社会人時代)

「もう後には引けない」と泣きながら励んだ受験勉強(浪人時代)

わずか2年でプロ奏者を断念(大学時代)

「失敗してもいいんだよ」と声をかけた臨採時代

内向的な気質が出てしまった大きな失敗 教員(1校目)

叱責がつらかった管理職のパワハラ 教員(2校目)

荒れた学校 忙しすぎる毎日 その結果「離婚」 そして2つ目の大きな失敗 教員(3校目)

全く新しい環境での4年間 県立○○○○センター

メモと手帳で乗り切った「小さな達成感」の連続 (教頭)

気が休まることがなかった5年間 (校長) 

35年の教員・校長としての経験を活かし定年を迎えた今 伝えたいこと 

【プロフィール】   

いつも人の目を気にしていた小学校時代

 小学校2年生。
私は転校生でした。

新しい学校で、友達からこう言われました。
「転校生は威張るなよ。」

 担任の先生にも、
「こんなこともわからないの?」と、冷たく言われました。

 発表のたびに、胸が苦しくなりました
「間違ったら笑われる」
そんな怖さが、ずっと心から離れませんでした

 朝になると、決まってお腹が痛くなりました。
体は、正直にSOSを出していたのだと思います。

 それでも、怖い先生の前では
「怒られないように」と必死にふるまうしかありませんでした。

 学校が怖い。
だから、授業にも集中できない。
 わからないことが増えるたび、
さらに自信を失っていきました

 小学校6年生。
クラスの空気に逆らえず、
「お前がやれ」と言われた図書委員長も、  断ることができませんでした

そして迎えた朝会の自己紹介。

 人前に立つなんて初めてで、
明日は学校に行きたくない。もう、消えてしまいたい
そう思いながら、涙をこらえて家に帰ったのを覚えています。

 気持ちはどんどん追い詰められ、
授業も、勉強も、手につかなくなりました。

 そして担任の先生は母にこう伝えました。
「高橋くんは、中学校では特殊学級の方がいいかもしれません。」

 けれど、母はそれを断りました。
代わりに、こう言われたそうです。
「もし何か好きなことがあるなら、やらせてあげてください。」と 
 

 
 

私の人生を変えたトランペットとの出会い(中学校時代)

 普通学級に進学した私は、
吹奏楽部に入りました。

 楽器は、トランペット。
ピカピカに光るその姿に、胸が高鳴りました。

「上手になりたい」
その一心で、専門書を手に取りました。

 けれど、本を開いた瞬間──
何が書いてあるのか、まったくわかりませんでした。

 専門用語ばかりが並び、
読むたびに自信がなくなっていきました

どうして、みんなはできるのに、自分はできないんだろう。

落ち込んでも、諦めることはできませんでした。

 どうしても、うまくなりたかった私は、
同じページを何度も何度も読みました。

 一行ずつ、何時間もかけて理解しようとしました。

 書いてある通りに、
ひたすら練習を繰り返しました。

 何度吹いても音が外れる。
何度練習しても指が回らない。

悔しくて、泣いたこともありました。

それでも、繰り返しました。

 そしてある日。
なかなか吹けなかったフレーズが、
自然と吹けるようになったのです。

その瞬間、私は心の底から思いました。

「あきらめずに繰り返しやれば、なんとかなるんだ。」

 この小さな成功体験が、
私の人生を、静かに変え始めたのです。

失敗から始まった、私の小さな変化

 ある日。
大好きだった音楽のテストで
40点を取ってしまいました。

 友達から言われました。
「吹奏楽部なのに、そんな点数?」

胸が、ギュッと締めつけられるようでした。

「吹奏楽部なら、もっとできないとダメなんだ。」
友達の言葉が、心に突き刺さりました。

 悔しくて、悔しくて。
もう、恥ずかしい思いはしたくない
そう思いました。

私は、勉強でも声に出して、何度も何度も繰り返しました。

 次のテスト。
顧問の先生から、「よく頑張ったな」と声をかけられました。

結果は、85点。

人生で初めて、勉強で自信を持つことができた瞬間でした。

クラスに自分の居場所を作った合唱コンクール

 そんなある日、合唱コンクールで、指揮者に推薦されました。

 でも──
自分にできるわけがない
また震えたらどうしよう
あの小学校時代の苦い記憶が、よみがえりました。

恥をかきたくない
そんな不安でいっぱいでした。

 それでも、周囲の押し切りに逆らえず、
私は指揮者をやることになりました。

 最初は怖かったけれど、
練習が始まると、不思議と楽しくなっていきました。

「ああしてほしい」
「もっとこう歌ってほしい」

気づけば、自分の意見を伝えられるようになっていました。

 合唱コンが終わる頃には、
クラスメイトから、よく声をかけられるようになりました。

 入学当初。
何のとりえもなかった、暗い私。

 でも今は、クラスに「私」という存在が、
ちゃんと認められ、自分らしさを出せるようになっていました。

 それでも、心のどこかには、まだ不安が残っていました。

「高校に合格できるだろうか」
「自分にできるだろうか」

 音楽以外のことに対しては、
相変わらず、自信のない私がいたのです。

不安から始まった商業科目への挑戦(高校時代)

 本当は──
音楽高校に進みたかった私。

でも、家庭の事情で、進路を変えるしかありませんでした。

「高校を卒業したら、会社員になる。」

そう決めて、商業高校への進学を選びました。

けれど、待っていたのは未知の世界。

商業科目なんて、今まで一度も学んだことがなかったのです。

自分にできるんだろうか
また、置いていかれるんじゃないか

不安は、日に日に大きくなりました。

 そんな中、先輩たちが教えてくれた

毎日繰り返すといいよ」。

 私はその言葉を信じ、毎日、復習しました。

できるまで、何度も何度も繰り返しました。

 最初は、意味さえわからなかった簿記の問題も、
少しずつできるようになっていきました。

そして、卒業の頃には──

簿記検定2級、工業簿記準2級、珠算3級に合格。

さらに、大手の不動産会社への就職も決まったのです。

 小さな不安の積み重ねが、
小さな成功を、積み重ねていきました。

「このままずっと経理部? 本当にやりたいことは?」(社会人時代)

 大手不動産会社に就職し、経理部に配属されました。
毎日、電卓を叩く単純作業。
このままずっと、こんな仕事を続けるのか?」と
将来への不安が募っていきました。

 そんなある日、部署の忘年会で訪れたピザ屋で、プロのトランペット演奏に出会いました。

酔った上司に促され、私も生演奏に参加。
 
 するとプロ奏者から、「いい音してるね。会社を辞めて僕のところに来ないか?」
と声をかけられたのです。

 それ以来、プロの言葉が頭から離れませんでした。

「どうせ一度きりの人生なら、本当にやりたいことをやろう。」

そう決心し、1年後に会社を辞め、
自分の意志で音楽大学の受験を決めました。

「もう後には引けない」と泣きながら励んだ受験勉強(浪人時代)


 トランペット奏者になる夢を叶えるため、音楽大学を目指しました。
 でも、入試にはトランペットだけでなく、
ピアノとソルフェージュ(初見試奏)の試験もありました。
 ピアノが弾けない私は、すぐに練習を始めました。

 毎日、トランペット・ピアノ・ソルフェージュを1時間ずつ繰り返し、実技だけで8時間。
ただ必死に練習を続けました。

 それでも、入試が近づくとソルフェージュが思うようにできず、不安と焦りばかり。

「もう後には引けない」と泣きながら練習する日々でした。

 心が折れそうになりながらも、
基礎に戻ってやり直し、どこでつまずくかを客観的に分析。
 その積み重ねで、当日の試験を乗り越え、
無事に希望する音楽大学に合格できたのです。

 あのときの8時間練習が
「自信がなかった自分」を
「本気でやればできる自分」へと
変えてくれました。

自分らしい生き方
またここから始まりました。

わずか2年でプロ奏者を断念(大学時代)

 全国から試験を通過してきたライバルばかりの中、
 プロを目指すのなら常にトップにいなければなりません。
 
 不安ばかりが先行する毎日でしたが、
ここでも毎日基礎練習に没頭。
小さな目標を立てながら練習に励みました。

 しかし、中学から独学で練習したトランペットの技術は変な癖だらけ。
 
 大学の4年間でそれを直すことができずプロになることは断念しました。

 

「失敗してもいいんだよ」と声をかけた臨採時代

 プロをあきらめた私は、教職の道に進みました。
 2年間で、小3と小4の担任を経験しました。

 たくさんの子どもたちに囲まれる中で、
おとなしい子
取り掛かりが遅い子
気持ちを伝えられない子」たちが気になり、「どうにかしてあげたい」と悩む日々でした。

 そんな子どもたちに伝えたのは、
『みんな違って、みんないい』
という金子みすゞさんの言葉。

 そして挑戦する子たちには
失敗してもいいんだよ』と声をかけ続けました。

 小さな成長も一緒に喜びながら、
クラスの雰囲気も少しずつ変わっていきました。

 このときの思いが、その後35年間の教員生活の礎になったのです。

内向的な気質が出てしまった大きな失敗 教員(1校目)

 少し荒れた中学校に着任した1年目。
 ある日、生徒から部活動の相談を受け、
私はすぐ顧問に伝えました。

 でも、自分の対応が不完全だったことで、問題は大きくなり、
学校全体で取り組まなければならない事態に。

 顧問は私の相談をスルーしてしまったのです。

 あの時、学年主任や管理職にまで話を上げていれば、防げたかもしれません。
 
 幼少期からの「思ったことをうまく伝えられない」
「不安や自信のなさから先延ばしにする」
――そんな内向的な気質が、
このとき大きな失敗につながってしまいました。

 この経験から、コミュニケーションの大切さを痛感。
 
 それ以降、小さなことでも積極的に話し、
行動するよう心がけるようになりました。

叱責がつらかった管理職のパワハラ 教員(2校目) 

 2校目では、厳しい管理職のもとで働くことになりました。
 毎日のように誰かが叱責され、
教職員が体調を崩したり、反発したりしていました。

 私は、他の人が怒られる姿を見るだけで、
心が締めつけられるような苦しさを感じていました。
 自分が怒られているわけでもないのに、
胸が痛み、何をするにもモチベーションが上がらなくなりました。

 気づけば、管理職の顔色ばかりをうかがう日々
 本当の自分を押し殺し、知らず知らずのうちに心をすり減らしていました

荒れた中学校 忙しすぎる毎日  その結果「離婚」   そして2つ目の大きな失敗 教員(3校目)

 着任したのは荒れた中学校。
毎日、トラブル続き。
几帳面で真面目な性格の私。

 でも、不安や自信のなさを隠すため、行動を先延ばしにする「内向的な気質」が出て、うまく立ち回れませんでした。

 考え事ばかりして、家庭に帰っても暗い顔。
 家族にも心配をかけ、ついには離婚を突きつけられました。
 2人の子どもとも離れ離れ
自分のすべてが壊れていくようでした。

 それでも、仕事だけは手放せません。
 苦しくても授業をして、部活動を見て、必死に耐えた。
 「負けてたまるか」「ここで終わるわけにはいかない」
そんな意地だけで、毎日を繋いでいました。

 だけど、心はボロボロでした。

 
 あるとき、生徒への声かけのタイミングを間違えてしまい、
それが自分の中で大きな傷になりました。

「なんで、あんな時に…」
後悔と自責が頭の中をぐるぐる回って、笑顔が消えました。

 気づけば、3ヶ月以上。
顔がこわばったまま、感情のないロボットみたいに働いていました。

 そんな私を見かねて、若手の先生たちが
サプライズで笑わせてくれました。
 
 スクールカウンセラーにも声をかけられ、
カウンセリングを受けました

 心のどこかで、ずっと
助けて」と叫んでいたのかもしれません。

 その日から、少しずつですが変わっていきました。
「考えてばかりじゃ、何も変わらない」
「だったら、笑おう。気にせず、前に進もう」
そう思えるようになっていったのです。

 私は、どん底から、
そして長く続いた心の悪循環から、やっと解放されました


全く新しい環境での4年間 県立○○○○センター 

 学校現場から離れ、センター指導主事として4年間
 県内の初任者・5年・10年経験者など、
5000人以上の教員に音楽授業の指導を行いました。

 対象は生徒ではなく、教員。
 講師を探して研修を組み、各学校の管理職に連絡を取る。
全く新しい世界に、最初は戸惑いしかありませんでした。

 特にきつかったのは、上司や管理職への気遣い、研修運営の細かい段取り、絶え間ない事前調整。

 学校現場では味わうことがなかった神経をすり減らす日々。
いつも心臓がぎゅっと縮まるような感覚でした。

 ストレスが限界に達しそうになり、本屋に駆け込みました。
社会人のあり方、自己啓発、心の持ち方に関する本を、文字通り「買いあさる」ように読み漁りました。

 特に、心配性や気疲れについて書かれた本。
 かつてカウンセリングで教わったことと重なり、ハッと気づかされたのです。

常識に縛られるな
ピンチはチャンスに変えられる
自分の気質とうまく付き合え

 それからは、あらゆるリスクを想定し、準備を徹底。
 どんなに細かいことでも漏らさず、
ほぼ完璧な下準備で、荒波を乗り切れるようになりました。

 あの4年間は、心も身体も削られました。
 
 でも、ここで得た経験は、後の教頭時代にも必ず活きる、かけがえのない財産になりました。

メモと手帳で乗り切った「小さな達成感」の連続 (教頭)

 初めにぶつかった壁は
「次から次へと何かが起こる」ことでした。

 提出書類を作っていると、
「教頭先生、○○です」と呼ばれ、
それに対応していると、
「生徒が○○しました」
また別件が飛び込んでくる。

 ペースが乱されるのが苦手だった私は、
すっかり振り回されてしまいました

 中途半端な仕事がどんどん積み上がり、締め切りも迫る。
焦りとストレスばかりが溜まっていきました。

 でも、ここで踏ん張れたのは、
指導主事時代の経験があったからです。
ピンチをチャンスに変える。自分のHSP気質を活かすんだ」
そう決めて、動きました。

 まず、その日にやることを全部メモに書き出しました。
そして、一つ終わるたびに、☑を入れる。

「やった!終わった!」
「嬉しい!」
小さな達成感小さな成功体験の連続でした。

 さらに、他の先生方にも
提出物の締め切りを守ってもらえるように、
手帳に「2週間前、1週間前、3日前」とリマインドを記入。
それを元に、丁寧に何度も声をかけました。

 気がつけば、面白いほど仕事がはかどるようになっていました。

 毎日が嵐のように忙しかったけれど、
終わってみれば、あっという間の2年間。
 
 ここで培った「段取り力」と「小さな達成感を積み重ねる力」は、その後の校長時代にも大きな支えとなりました。

気が休まることがなかった5年間 (校長) 

 学校の最高責任者として着任した私は、
子供たちの学力向上、安心・安全な学校づくり、保護者や地域への対応など、
5年間、前向きに取り組み続けました。
 常に何かに心を配り、気が休まる時間はほとんどありませんでした。

 子供たちや教職員にやる気が起こるよう、
日々小さな声かけや励ましを重ねました。
 
 また、地域では猿や猪が出没することもあり、子供たちの登下校を送迎して守る日々も続きました。

 その後、追い打ちをかけるように、世界中を揺るがしたコロナ禍。

 ここでも「ピンチをチャンスに変える」意識を持ち、危機感を高めながら、先を見越した感染対策に力を尽くしました。

 何度も壁にぶつかりながらも、
ひとつひとつ乗り越え、無我夢中で駆け抜けた5年間。

 今振り返ると、「自分自身、よくやったな」と思います。
 

 そして、こうして無事に定年を迎えられたことに、ただただ大きな安堵を感じています。

35年の教員・校長としての経験を活かし定年を迎えた今 伝えたいこと 

 私は、子どもの頃から「親の期待」や
「世間体」「常識」に縛られ、
本当の自分を抑え込んで生きてきました。
 小さなことに不安を感じ、人目を気にしてばかりの毎日でした。

 でも、あるとき小さな目標を立て、一歩踏み出したことで、少しずつ人生が変わり始めました。
 トランペットとの出会い、勉強、仕事――
どれも「小さな挑戦と小さな成功体験」の積み重ねでした。

 35年間、教員・指導主事・校長として、
学校・職場・家庭・人間関係、あらゆるトラブルを子どもや親と共に乗り越えてきました。

 そのなかで私が実践してきたのは、とてもシンプルなことです。

「小さな目標を立てること」
「達成できたら、メモや手帳に記録して、できた自分を認めること」
――これを、ただコツコツと続けてきただけでした。

 悩みやストレスは、誰にでも起こるものです。
 大事なのは「自分の気持ちを知り、悪循環に気づくこと」。
 そして「周囲の声に振り回されず、自分自身の選択に自信を持つこと」。

 カウンセリングに出会い、心を整えるワークを学んだ私は、さらに短時間で気持ちを切り替えられるようになりました。

 そして、自分らしい生き方を手に入れることができたのです。

 あなたも、たとえ今はつらくても大丈夫です。
 ほんの小さな変化が、きっと大きな幸せへとつながります
 私の経験すべてを活かして、あなたの人生を全力でサポートしていきます。

 

  私は現在、カウンセリングを行うかたわら学校現場で初任者指導も行っています。

 カウンセリングで学んだことを初任者にも話し多くの共感と信頼を得ています。

 悪循環を断ち切る方法やその他のスキルを多くの人に広め、悩める人を救いたい。

 そして、自分らしい生き方、最高の幸せをつかんでほしい。それが私の願いです。

 

 自分らしい生き方を手に入れるために

「悩んでいる自分」を捨て

輝かしい未来に向かって

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想像してみてください

その姿はもうすぐ目の前です

 さあ 今すぐ 行動を起こしましょう

 

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